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不幸と決めつけること不憫と思いやること

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他人から不幸と言われ違和感しかない

たまたま自分の置かれた状況を遠くから見た人が、可愛そうなひとだと言っているのを知った。

人の生い立ちは千差万別であり、一様に語られるものではありません。それでも第三者の主観から通してみれば不幸な人間に映ることもあるようで、そうした考えや意見を目の前にする度に違和感しかないということはないでしょうか。

今回は、そうした違和感の原因と、心の持ちようなどについて考えていきたいと思います。

不幸と不憫を混同している人がいる

世の中には恵まれない境遇の人や、ときに信じれないような悲惨な話を耳目に触れることがあります。

そうした事情や結末を知ると、つい不幸な人と言ってしまう気持ちは理解できます。しかし、人を哀れだんり、悲しみを前にやるせない気持ちになったときには、不幸ではなく、不憫に思うという表現が正しいかと思います。

もちろん、不幸であれ、不憫であれ、そうした同情の目を向けられる当人からすれば、違和感が拭えないという点では同じかもしれませんが、ときに本人やそれに近しい人を前に、平気であの人は不幸な人だと言い放つ無神経な人がいます。

そして不憫と思いやるのは相手の身の上や事情に触れた心情を表すことであり、不幸と断じることとは全く別物であることを知っておくべきです。

その違いや意味さえも理解していない人が、安易に人の人生について不幸だと語ることが、もっともその人の人生を侮辱しているということを理解する必要があるでしょう。

幸せや不幸は自身だけが知ること

そもそも、その人が幸せか不幸かはその人自身が知ることです。

例えば、あの人はお金に苦労することもない環境だからいつも人前で笑っていると思っていても、あくまでそれは外側から見ての事実であり、実際には人には言えない悩みや苦労があるかもしれません。

その逆もあり、あの人はずっと働き詰めで生活が大変そうと同情しているが、実際は家族仲がよく慎ましい日々ながら笑い声が絶えない家庭という場合もあります。

ひとは、あの子は幼い時に母親を失い片親だからとか、いつもお金に苦労しているからなどと、その一面だけをみて簡単に不幸だと断じる傾向にあります。

しかし、それは言われた本人からすれば違和感しかなく、ときに不快な思いをさせてしまうことです。思うだけであればよいのですが、それを口にすることは控える方が良いでしょう。

生きていれば、幸せだと感じることもあれば、突然、悲しいことに見舞われたら何て不幸なんだと思うこともあるでしょう。その人が幸せか不幸かはその人が生きていく中で実感することであり、たとえ身近な人でもそれを知る術などはありません。

そして最後に、不憫と思いやる気持ちは優しさですが、それを口にすることは残酷でしかないということを肝に銘じておきましょう。

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