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我慢できる恋愛は恋愛じゃない
恋愛至上主義のある偉人が生んだこの名言。
実に力強く、胸に突き刺さる言葉です。
簡単に捨てる事が出来る思いなど、本当の愛ではないと言う、極めて一点突破な考え方は、時に、その愛以外ものをかなぐり捨てる覚悟なければ出来ません。
そして、その中には、自分を大事に思ってくれている人達の気持ちが含まれている事があってでもです。
一見、美しく語られがちな愛ですが、裏を返せば、それも一つの欲であり、その欲に駆られて、周囲が見えなくなっている事も考えられます。
容易く見えるようで、やはり、凡人には、なかなか難しい生き方にも思えます。
自分勝手と非難されようと
恋愛至上主義に身を投じようと考えるならば、まず、その愛を選んだ瞬間から、周囲が四面楚歌となり、非難の的にされる事も覚悟しておかなければいけません。
『我慢できる恋愛は恋愛じゃない』
この言葉を生んだ偉人は、我々とはまったく違った立場である為、その非難も大きなものでしたが、一般社会に籍を置く人間では、そこまでの非難は、そうそう考えられません。
それでも、倫理の道をはずした生き方をすれば、身近な所からは非難の声を浴びせられます。
例えば、家庭をもつ身でありながら不倫を行えば、身内からは誹りを受けるでしょうし、それが社内不倫であれば、会社内での立場も悪くすることがあります。
二人がいかに愛し合っていても、許されない愛である以上、身内や世間から非難を浴びる事になり、広い世界の中で、孤立無援となります。
そんな状態で、心のよすがとなるのが、偉人の言葉、我慢できる恋愛は恋愛じゃないです。
周囲より、過ちを責められる中で、誰に分かってもらえなくとも、これは自分達だけが分かる、真実の愛なのだと、非難する人達から飛んでくる、無数の言葉の矢を防ぐ、愛の盾となるのです。
誰でも実践できるものではない
周囲の理解を得られない愛を選んだ時に、偉人の掲げる、恋愛至上主義は、とても心強い拠り所となります。
しかし、誰しもその主義を貫く事が出来るのかと言えば、簡単ではないでしょう。
やはり、多くの人は、出来るなら、非難などされない愛の形を求めればこそ、倫理観や良心に背く愛には、否定的にもなり、躊躇いを覚えてしまいます。
それは、勇気という言葉で語るものではなく、選べるなら、平穏で多くの人に祝福を受ける愛を選びたいからです。
恋愛至上主義では、そうした状況判断や周囲に対しての配慮は、一切排除する所から始めます。
自分達の幸せを第一に優先しそれを全てと考え、その事でたとえ涙する人達ががいても構わないという決心。
その涙で諦めるような思いは、偽者の愛と同じだからです。
言葉では、まだ簡単に思えるかもれしれませんが、それを現実で実行へ移すには、多くの葛藤や、失うものを考慮し、それが一つ一つ、足枷になり、その道へ進むのを踏み止まらそうとします。
それでも、それが茨の道や、針の山と分かっていながらも、裸足で駆け抜けていく人だけが、恋愛至上主義者となれるのです。
そうした生き方は、共感を覚える人が少なく、表向きには賛成する人がいたとしても、内心の所、自分の事しか考えられないのかと、痛烈に批判している事もあります。
恋愛至上主義を貫いた結果、取り巻く環境が、劇的に厳しいものになる事から、その愛を選んだ瞬間からが、試練の始まりとも言えます。
こうなってくると、苦行の道にしか見えませんが、その道のりで挫けそうになった時に、
『我慢できる恋愛は恋愛じゃない』
偉人の言葉を思い出し、消え掛かりそうになる心のろうそくに火をともし、恋愛至上主義を貫いていくのです。
もし、今、道ならぬ恋をしている人がいて、諦めるのか、貫くのかと、二つの道を前に足を止めているのであれば、偉人の言葉、そこに伴う苦痛の道を考慮し、じっくりと考えられていかがでしょうか?